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メドベージェフを“軟禁”したプーチンの「予防クーデター」

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 モスクワの師走は決して厳寒ではなかった。しかし、雪が路上を埋め尽くしているわけでもないにもかかわらず、交通渋滞は手に負えない。退庁時間に重なろうものなら、数キロメートルを行くのに2時間も要することがあった。地下駐車場の工夫の余地のないビルディングの外側には、道の両側で駐車の列ができており、結局車線は1車輌分しか残されていないというのが脇道の実態だ。筆者がこのほど訪れたモスクワは、絵に描いたような大都市の非効率性を曝け出していた。
 そのモスクワで政治枠組みの急変が起きようとしている。そもそもは9月24日の「統一ロシア」の党大会でのメドベージェフ大統領の演説から始まったといえる。彼は、来年3月4日に予定される大統領選挙で、プーチン首相が再び6年任期(再選も可能)のその職に挑戦することを後押しすると述べたのだ。
 この図式はロシアにとっての相も変らぬ政治の停滞と受け止められた。そしてプーチン、メドベージェフ双方の人気がともに落ち込み、12月4日の下院総選挙で「統一ロシア」は大苦戦に陥った。議席配分は定数450のうち、与党「統一ロシア」は77減の238、共産党92、中道左派の公正ロシア64、民族右派の自由民主党56となった。足切りの比例代表選挙なのだが、投票所での不正行為が相次いだとの指摘があるにもかかわらず、散々の結果となった。

メドベージェフの帰宅を許さず

 9月24日の「統一ロシア」の党大会は、下院総選挙を控えて総決起集会になるはずであった。メドベージェフ大統領の演説も当然予定されていた。この時に臨み、プーチンは「予防的なクーデター体制」をとった。前日にメドベージェフを誘い、一晩中語り合うことで実質上帰宅を許さなかったのだ。彼の耳にはメドベージェフが大統領選挙への立候補宣言を用意していることについての報告が届いていたし、彼がもし帰宅すれば夫の尻を押して大統領職への再挑戦を迫る猛妻がいるという構図だったからだ。どのような説得手法を使ったのかは定かではないが、党大会の朝までには、メドベージェフはプーチンに職を譲り渡すことに同意したのだ。
 しかし9月24日の当日、メドベージェフの登壇を見守るプーチンは、緊張の表情を崩すことはなかった。この点については多くの証言がある。ともかくも予防的なクーデターは成功し、メドベージェフの後に演説したプーチンは、立場を譲ったメドベージェフを首相にするという、もうひとつの「双頭の鷲」体制を提示した。結果としてロシア市民にとっては時代閉塞の延長そのものとなったのだ。

「政権のたらい回し」という腐臭

9月24日、与党「統一ロシア」の党大会中に時計を合わせるプーチン首相(左)とメドベージェフ大統領 (C)AFP=時事

9月24日、与党「統一ロシア」の党大会中に時計を合わせるプーチン首相(左)とメドベージェフ大統領 (C)AFP=時事

 プーチンの予防クーデターというとっておきの裏話を私に教えてくれたのは、メドベージェフの周辺にあって、近代化路線の確立を大統領に対して迫っていた人物のひとりである。この時の雰囲気だけは正確に伝えておく必要がある。彼はこの話題を、私に対してだけではなく、彼を取り囲んだ2、3人のロシア人にも聞こえるように提示したのだ。ソ連時代のような、誰がKGBの手先かわからないといった時代状況ではもはやないことに注意を喚起したい。プーチンとて、1対1の素手で説得を行なったのであり、片手にピストルを持っていたわけではないのだ。
 予防クーデターの話がロシア市民の間に広がっているわけではない。その証拠に、政治事情通の連れのロシア人たちは目を丸くしていたのだから。しかしミドル・クラスがいつまでたっても5人に1人という割合から脱却できないでいるロシアにおいては、政権のたらい回しという腐臭をかぎつける能力は社会に広く分有されている。社会と経済の停滞から崩壊が不可避となった20年前のソ連時代でも中産階級は2割というのが社会学者の分析であった。これがエリツィン、プーチン、メドベージェフと継いできても依然として中産階級は増えていないのだ。開票についての不正操作への市民の疑いは深いものとなった。

「擬似中産階級」

 こうした社会的反応の背景で、急速な情勢変化が生じている。各地の投票所では出口調査を行なう自発的集団がいた。投票の行く末について、市民の連合体が独自の情報をもつに至っているのだ。公表された「統一ロシア」への投票率は50%弱であったが、少なく見積もっても実数はそれよりも数%は少ないはずだ、という相場観をロシア市民はもった。そして彼らは街頭に出た。ウェブサイトを通じたコミュニケーションが抗議デモの呼び掛けになっていることは、「アラブの春」以来世界の各地で観察されたことと共通である。
 最大の違いは、デモを構成するのが中産階級か、中産階級への道を何らかの理由で阻害されている擬似中産階級が多いことだ。これはアラブと違って、いわば「勃興国の罠」といわれる、経済的機会の拡大を阻害する要因の打破に、プーチンの体制が失敗してきたことの帰結ともいえよう。
 原油や天然ガスの輸出により、富の形成と移転が起きたことは確かだ。しかし、これを起爆剤としたさらなる付加価値形成が阻害されているのだ。縦の系列での富のトリクル・ダウン(したたり落ち)はあるものの、隣接領域を含めて市場が広く形成され、市場に向って挑戦を繰り返すという形態の社会的反応を生むことはなかった。今後は、何をきっかけにロシア社会の変化を促すことができるのかが本格的に問われることとなろう。

体制内のリベラル派

 3月の大統領選挙でプーチンが勝利することは確実といわれる。他にロシアを託するに足る立候補者が見当たらないからである。しかし、プーチン大統領のもとでの政治システムは大きく変化し、「統一ロシア」は解体過程に入るのではないか。すでに大富豪のミハイル・プロホロフと前副首相のアレクセイ・クドリンの組み合わせによる「リベラル」派の形成宣言が行なわれた。元第1副首相のチュバイスもこれに加わるとされる。クレムリンの了解のもと、多様化するロシア市民の政治意識に、体制派の内部からの翼を広げる働きかけといえよう。
 こうしたリベラルの動きに対して「統一ロシア」の左派は、党外の公正ロシアを吸収するかたちでもうひとつの核をつくるのではないか。これにジュガーノフの共産党とジリノフスキーが率いる自由民主党という4党体制で、とにもかくにも民意の吸収を図ろうとするのではないか。クレムリンの戦略家と呼ばれているスルコフ(大統領府第1副長官)がこうした構想を語るまでになっている。何しろ行き詰まりは経済メカニズムにも、社会システムにも及んでいるからだ。

ロシアを凝視する中国

 プーチン大統領は2000年以降のその執政期において、随分手荒な手法で自らの体制づくりを行なった。違法行為ないし、その嫌疑のある行為も多いとされ、もし失脚すれば収監される可能性さえないとはいえない。クレムリンをあげての政治安定化措置が2012年は繰り出されることであろう。
 プーチン体制は変容を重ねる社会情勢に対して、とにもかくにも対応を続けることになろう。これを注意深く観察しているのは、欧米だけではない。中国はとりわけモスクワの情勢に対して敏感である。共産主義体制の創始国であったロシアの政治社会の変容は、中国民衆にとって間違いなくベンチマーク(基準どり)として採用すべき対象であるからだ。
 スルコフが描き出したと思われる政治図式に関していえば、中国ではソ連時代のスースロフを思い浮かべる人も多かろう。スルコフはモスクワでは現代のスースロフと呼ばれているからだ。ソ連共産党のイデオローグであったスースロフは、自らをソ連型共産主義の守り本尊だと認定していたといわれる。中ソ対立が激化したとき、毛沢東がモスクワに乗り込むにあたって選び出したのは鄧小平であった。毛沢東にスースロフとの論争の自信がなかったからだとの説もある。鄧小平の奔放さをもってすれば、スースロフに対して悪くともタイに持ち込めると毛沢東が考えたことは確かであろう。クレムリンには現代のスースロフが登場したのに対して、中国は現代の鄧小平を対置できるのか、という課題の浮上ともいえる。
「政治の現代化」と中国で語られてきたことの具体的な内容は、多党政治の容認である。プーチンのもとで2012年3月以降、正確には大統領就任の5月以降繰り広げられる多党政治体制の行方に、北京は多大の関心を寄せつつある。欧米諸国にプーチン政治が簡単に受け入れられるとは思えないが、そのインパクトは中国において、衝撃力をもって受け止められると考えておくべきであろう。


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